追憶ブログ

こんなことがあったと過去を振り返ったり、思うことを書いていこうと思います。多少なりとも暇つぶしくらいになれば幸いです。

問い2

「幸せとは何か」

 

今回はこれ。

こっちのほうが考えたことある人多いのかも。

そんなのタイミングによって変わるだろうと自分でも突っ込んでしまいそうだ。

でも、そのタイミングごとに明確に言えたらきっとどれも間違いではないだろう。

むしろ、それだけ幸せを語れることが幸せなのかもしれない。

 

それはさておき、この問いにあなたはなんと答えるでしょうか。

私は

 

「自分の理解者がいること」

 

としている。

 はっきり言って不可能だと考えている。

他人のことをすべて理解できるのは自身のクローンくらいだろうし、

出来たら逆に怖い。

 

じゃあなんでこんなこと言ってるのか。

それはこの回答が結果ではなく、プロセスを重要視しているからである。

そうするとさっきの回答には誤りがある。

正しくは

 

「自分を理解しようとしてくれる者がいること」

 

といえるだろう。

 

そもそもなんでこんな話をしだしたか言ってなかった気がする。

理由は3つ。

1.過去友達に「なんでお前は他人にそんなに興味があるの?」

と言われたことが頭によぎったから。

2.最近読んだ本が幸せの定義について触れていたから。

3.1と2を踏まえ、整理したくなった。

 

1から考えるに私は関わった多くの人のことが気になり、その人についての情報を集めることを止めようとしない。それはきっと私の考える幸せの定義がそうさせている。

つまり

幸せとは自分を理解しようとしてくれる者がいること→幸せがそうだと認識しているので他人にも同等のことをしようとする→相手を理解したくなる

 

文にして振り返ってみると自らの幸せを他人に押し付けていて、

少々傲慢な気がするが...

 

でも、それでも相手を理解することはやめたくないなんて考えるのです。

自分にもそんな人がいたらなぁ。

家族や友人がそういう存在じゃないって言ってるわけじゃないんだけど、

そういう奴いるのかって言われたら即答できない。

 

ただ、そういう相手を見つけるのは受け身じゃ難しいとも感じた。

だから理解してもらえるような人間になるには、まずその人を理解しようとも思ったんだ。愛し愛される関係のように。

 

 現状の考える幸せはこんな感じ。

数年後、十数年後、数十年後の自分はなんて答えるだろうか。

あなたの考える幸せがあなたを幸せにしますように

なんて誰かに向けて祈りながら今日も生きていく。

 

追記

振り返ってみると、家族や友人に恵まれた時点で幸せだと思う。

それでも更に味を占めたくなる人間はやっぱり愚かなのかなぁ。。。